こんにちは。このサイトを運営する画家の宮島啓輔です。
今回は、日本を代表する画家のひとりの葛飾北斎の生涯や代表作についてお伝えしていきたいと思います。
前回紹介した画家のフィンセント・ファン・ゴッホなどの海外の芸術家にも大きな影響を与え、アメリカの雑誌が選んだ「この1000年間に偉大な業績をあげた世界の人物100人」に唯一の日本人として選ばれています。
目次
葛飾北斎生涯年表
1760年: 江戸・本所割下水(現在の東京都墨田区)に生まれる。本名は中島時太郎。
1778年: 18歳で浮世絵師・勝川春章の弟子となり、「春朗」の名で活動を始める。
1793年: 師である春章が亡くなり、勝川派を離れる。
1798年: 画号を「葛飾北斎」と改め、独立。
1814年: 『北斎漫画』を刊行。挿絵集として好評を博す。
1831年: 「冨嶽三十六景」を発表。
1839年: 火災により多くの作品を失うが、再び創作活動を再開。
1849年: 江戸で死去。享年90歳。
葛飾北斎はどんな画家?
幼少期から青年期:絵師としての第一歩(1760年〜1793年)
葛飾北斎は1760年、江戸・本所割下水(現在の東京都墨田区)で生まれました。幼い頃から絵に強い興味を示し、6歳頃から絵を描き始めたと言われています。本名は「中島時太郎」で、川村氏という鏡職人の家系に生まれたため、父親の仕事を手伝う中で、鏡に描かれる装飾画を通じて絵に親しんでいた可能性もあります。
18歳の時、北斎は有名な浮世絵師・勝川春章の弟子となり、役者絵や美人画を学びました。この時期、彼は「春朗(しゅんろう)」という名前で活動していました。師匠の春章は、当時の浮世絵界を代表する人物だったため、北斎はその指導のもとで確かな技術を磨いていきます。
師匠の影響下で、北斎は役者や美人を描く華やかな浮世絵を手掛け、人気も徐々に高まっていきました。しかし、彼の探究心はそれだけにとどまらず、浮世絵の枠を超えた新しい表現を模索していくようになります。
1793年、33歳の時、師である勝川春章が亡くなると、北斎は勝川派を離れます。ここから彼の画風が大きく変化し、様々な画風を取り入れていくようになります。
中年期:画風の変遷と独立(1794年〜1814年)
勝川派を離れた後、北斎はさまざまな画号を名乗りながら自己の芸術を模索し続けます。
彼はペンネームを何回も変える度に画風も変わっており、知名度の上がったペンネームは人に売っていたと言われています。
40代になると、役者絵や美人画から離れ、風景画や日常生活を描いた作品に興味を移していきます。これは彼が、より広い視野で世の中を捉えようとした結果と言えます。この時期、彼の作品は従来の浮世絵とは異なる個性的な表現が増えていきます。
1804年には、江戸の本所で「大達磨(だいだるま)」と呼ばれる巨大な達磨の絵を描き、多くの人々を驚かせました。高さ180メートルにも及ぶこの巨大な作品は、北斎の知名度を一気に高める契機となります。この時代の北斎は、絵画の技術だけでなく、芸術そのものに対する挑戦的な精神が非常に旺盛でした。
1814年には、絵本『北斎漫画』を刊行します。この絵本は、自然や動物、人々の日常生活、さらには奇妙な妖怪や幽霊など、幅広いテーマを描いたもので、挿絵集として当時大きな人気を博しました。
北斎は『北斎漫画』を通じて、単なる浮世絵師から一段と広い視野を持つアーティストへと成長していきます。
50代から60代:『冨嶽三十六景』の誕生と最盛期(1815年〜1831年)
北斎の画業の中で最も知られる作品群「冨嶽三十六景」が生まれたのは、60代に入ってからのことです。1829年頃、北斎は風景画の集大成として富士山をテーマにした一連の浮世絵を制作し始めました。
このシリーズは、江戸時代の風景画の傑作として名高く、富士山をさまざまな場所や季節、時間帯から描いたものです。
「神奈川沖浪裏」はこの中の一枚で、巨大な波が富士山を背景に激しく打ち寄せる様子を描いています。この作品は当時の日本国内で人気を博し、後に西洋でも絶大な評価を受けます。
海外の人が日本=富士山のイメージが強いのもこの作品が影響していると考えられます。
現代の高性能なカメラで撮影してやっとわかるレベルの波の細かい部分が忠実に表現されています。
また、1827年には西洋画の技法を参考にした遠近法を駆使した作品も描き、従来の日本画とは異なる斬新な表現を試みていました。北斎は風景画を通じて、人々に新たな視点を提供し、その結果、風景画家としても高い評価を受けることとなります。
晩年(1832年〜1849年)
北斎の晩年は、創作意欲が衰えるどころかますます高まっていきました。70代を迎えても、彼は新しい表現に挑戦し続け、「画狂老人(がきょうろうじん)」という新しい画号を名乗り出しました。
また、北斎とその娘も絵描きでしたが片付けが苦手だったようで家が散らかると引越しており、生涯の引っ越し回数は93回と言われています。
1839年、北斎は80歳の時に火災によって多くの作品や資料を失いますが、それでも彼は創作活動を止めることはありませんでした。
北斎は、晩年まで創作意欲が衰える事無く90歳近くになっても「あと10年生きれば、もっと素晴らしい絵が描けるのに」と語ったと言われています。
1849年、北斎は江戸で生涯を閉じましたが、その影響力は死後も続きました。特にフランスの印象派の画家や後世の芸術家たちに、北斎を含めた西洋には無かった作風が大きな影響を与えました。