こんにちは。このサイトを運営している画家の宮島啓輔です。
今回は、日本人にとっても馴染みのある画家の一人のクロード・モネについて簡単に解説いて行きたいと思います。
クロード・モネの生涯年表
1840年: パリに生まれる。
1845年: 家族と共にル・アーヴルへ移住。
1851年: ル・アーヴルの中学校に入学、風刺画を描き始める。
1859年: パリに戻り、スイスのアカデミーで学ぶ。
1861年: アルジェリアで軍務に就く。
1862年: 帰国後、シャルル・グレールのアトリエでエドゥアール・マネ、ピエール=オーギュスト・ルノワールと出会う。
1870年: カミーユ・ドンシューと結婚。普仏戦争勃発のためロンドンに逃れる。
1872年: フランスに戻り、『印象・日の出』を描く。
1874年: 第1回印象派展に参加、『印象・日の出』を出品。
1883年: ジヴェルニーに移住。
1890年: ジヴェルニーの土地を購入、庭を造り始める。
1911年: 妻カミーユが亡くなる。
1926年: ジヴェルニーで死去。
クロード・モネはどんな画家?
クロード・モネは、19世紀後半から20世紀初頭にかけて活躍したフランスの画家で、印象派を代表する人物です。彼の名を聞けば、真っ先に「印象派」という言葉を思い浮かべる人も多いと思います。
実際、モネは「印象派」という名称の由来となった絵画『印象・日の出』を描いたことで知られています。
彼の作品は、従来のリアルに描くアカデミックな絵画とは異なり、自然の光と色彩を瞬間的に捉えることに重きを置いていました。
モネは1840年にパリで生まれましたが、幼少期に家族と共にル・アーヴルへ移り住みます。
自然豊かなこの港町で育った彼は、自然に対する鋭い感受性を養いました。
幼い頃から絵を描くことに才能を発揮し、風刺画を描いて地元で評判を呼んだこともあります。
16歳でパリに戻ったモネは、美術学校に入学しましたが、そこでのアカデミックな教育に満足できず、自由な表現を求めるようになります。
美術学校を離れた後、彼は独自のスタイルを模索しながら、エドゥアール・マネやピエール=オーギュスト・ルノワールなど、後に印象派の仲間となる芸術家たちと出会います。これらの出会いが、モネの作品に大きな影響を与えました。
1861年、モネはアルジェリアでの軍務に就きます。このアルジェリアでの経験は彼にとって非常に重要なもので、砂漠の強烈な光と独特の風景が彼の感性を刺激し、その後の作品に反映されることになります。これはモネ本人のインタビューで話されています。
帰国後、モネはパリで活動を再開し、マネやルノワール、カミーユ・ピサロなどの芸術家たちと共に新しい芸術運動を模索しました。彼らが打ち立てたこの運動は、後に「印象派」と呼ばれるようになります。
モネの作品は、細部にこだわらず、光と色彩の移り変わりを捉えることに重点を置いています。これは、彼が自然の一瞬一瞬をキャンバスに封じ込めようとする試みであり、従来の絵画とは一線を画するものでした。
ちょうどこの時期に、チューブに入った油絵の具が発明された事で持ち運びが容易になり屋外での制作のハードルも下がったと言われています。
1870年、普仏戦争が勃発し、モネは家族と共にロンドンへ逃れます。ここで彼はイギリスの風景画家たちの影響を受け、特にターナーやコンスタブルの作品から多くを学びました。この経験が、モネの光の表現に一層の深みを加えることになりました。
ロンドンからフランスに戻った後、彼は『印象・日の出』を描き、1874年の第1回印象派展で発表しました。
この作品がきっかけで、「印象派」という名称が広まり、モネはこの新しい芸術運動の象徴的な存在となったのです。
1883年、モネはパリ郊外のジヴェルニーに移り住みます。ここで彼は広大な庭を作り、その庭を題材に数々の名作を生み出しました。
特に有名なのが「睡蓮」の連作です。彼はこの庭で、自然との対話を通じて光と色彩の探求を深めました。この作品群は、モネの芸術的追求の頂点を示すものであり、彼の作品の中でも最も評価されています。
それとモネは同時に多くの困難や悲しみも経験しています。1911年、妻カミーユの死は彼に大きな影響を与えましたが、その悲しみを乗り越え、彼はさらに力強い作品を生み出し続けました。
晩年には白内障を患い、視力が低下する中でも創作を続け、色彩がより大胆で抽象的なものへと変化しました。
1926年、モネは86歳でジヴェルニーで亡くなりましたが、その影響力は現在でも衰えることなく、日本でも人気の高い画家のひとりです。
それまで、対象物をそのまま写真のように絵にするために存在していた美術に新しい可能性を見つけた先駆者的な存在だとと言えます。
クロード・モネの代表作「印象・日の出」
『印象・日の出』は、モネが1872年に描いた作品で、フランス北部の港町ル・アーヴルの朝焼けをテーマにしています。
モネは、わずか数時間の間に刻々と変わる光の様子を捉えようとしました。
この作品は、1874年の第1回印象派展に出品されましたが、当時の評論家ルイ・ルロワがこの絵を見て「まるで絵の下描きのようだ」と揶揄し、「印象」という言葉を使ったことがきっかけで、後に「印象派」という名称が定着しました。
『印象・日の出』は、モネが従来の絵画のルールを打ち破り、瞬間の光と色彩の感覚をキャンバスに留めようとした挑戦の象徴とも言える作品です。
クロード・モネの代表作「ルーアン大聖堂」
『ルーアン大聖堂』は、モネが1892年から1894年にかけて制作したシリーズ作品で、フランスのルーアンにある大聖堂を題材にしています。
モネはこの大聖堂を、朝、昼、夕方といった異なる時間帯や、晴天や曇りなどの異なる天候の下で繰り返し描きました。このシリーズは、30点以上に及びます。
モネは、同じ建物であっても、光の変化によってどんな見え方になるかに注目し、その微妙な変化をキャンバスにおさめました。
モネは、ルーアン大聖堂の彫刻的な美しさをそのまま描くのではなく、光がもたらす一瞬の印象を捉えたのです。
クロード・モネの代表作「睡蓮」
最後に紹介するのは、モネの晩年の代表作である『睡蓮』シリーズです。
モネがジヴェルニーの自宅の庭に造った池を題材にして描かれたこのシリーズは、モネの作品の中でも最も有名な作品群の一つです。晩年の20年は特に集中して睡蓮が描かれ、絵と庭造りに凝っていたと言われています。
モネは、異なる時間帯や季節によって変わる光の様子を描くため、何年にもわたって同じモチーフを繰り返し描きました。特に視力が低下した晩年には、彼の色彩感覚がより抽象的で大胆になって行きました。
最後に
今回は、「クロード・モネはどんな画家で何をした人?代表作「印象・日の出」や「睡蓮」なども解説」の内容で印象派の代表的な画家について解説してきました。
日本でも人気の高い画家で定期的に展覧会が開かれているので一度は観た事のある人も多いと思います。
最後まで読んで頂きありがとうございました。