レオナルド・ダ・ヴィンチはどんな画家で何をした人?生涯や代表作「モナ・リザ」「最後の晩餐」について

アートの歴史

こんにちは。画家の宮島啓輔です。

アクリル画作品

私は普段の作品制作やブログ記事執筆のためにアイデアなどを常にスマホや紙にメモできる状況を作っています。

特に絵のアイデアは描き留めておかないと記憶から流れて行ってしまうのでとりあえず浮かんだアイデアはレシートの裏などでも簡単に形にして残しています。

今回紹介するレオナルド・ダ・ヴィンチはかなりのメモ魔だったと言われており、現在でもかなりの量の様々な分野でのアイデアや記録が残っています。

今回は、美術史の中でもかなり有名なレオナルド・ダ・ヴィンチについてお伝えして行こうと思います。

レオナルド・ダヴィンチはどんな画家?

名前:レオナルド・ダ・ヴィンチ

生没年:1452年4月15日~1519年5月2日(享年67歳)

出身地:フィレンツェ共和国ヴィンチ村

活躍した場所:イタリアのフィレンツェ、ミラノ、ローマ

代表作:「最後の晩餐」、「モナ・リザ」

作風:盛期ルネサンス

性格:完璧主義、飽きやすい、万能の天才、強い探求心

レオナルドダヴィンチの現在に残っている作品数は非常に少ない事で知られています。また、ダヴィンチは生涯で現存するだけで数千枚の手稿を残しました。画家としての活動が一番知られていますが、様々な分野で数百年も時代を先取りしたような研究や構想を手稿に書き留めていました。

一枚の絵を描くにしても人の筋肉の動きを的確に表現するための解剖学から植物学、光学、力学等々やリアルに描くための絵画技法など高い探求意欲の結晶が詰め込まれて描かれています。

人間の体がはっきりわかっておらず、迷信で治す事が強く信じられていた時代に非常に細密な身体の中のスケッチを残したり、空を飛ぶためのヘリコプターの構想など幅広い分野で先駆的すぎる研究をした事から「万能の天才」と呼ばれています。

一人の人間が残したものとは思えない研究分野の幅広さとレベルの高さからレオナルド・ダ・ヴィンチは研究団体のグループ名であり、広報役が有名な長い髭の人物だったのではないか?というような噂がされるほどでした。

レオナルド・ダ・ヴィンチの生涯年表

1452年(0才)4月15日フィレンツェ郊外のヴィンチ村に生まれる

1466年(14才頃)ヴェロッキオ工房に弟子入りする

1472年(20才)聖ルカ組合にプロ画家として
登録

1475年(23才)「受胎告知」完成

1478年(26才)独立

1482年(30才)ミラノのスフォルツァ家のもとへ移住

1498年(46才)「最後の晩餐」完成

1502年(50才)チェザーレ・ボルジアに軍事土木技師として従軍

1503年(51才)フィレンツェ市庁舎にミケランジェロと向い合せの壁画を制作するも未完成に終わる。「モナ・リザ」制作(~1506年)

1506年(54才)フランス王ルイ12世に招かれてミラノに60才まで在住

1513年(61才)ジュリアーノ・デ・メディチに招かれてローマへ行く。

1516年(64才)フランス王フランソワ1世に招かれてフランスにうつる。

1519年(67才)レオナルド・ダ・ヴィンチ没

レオナルド・ダ・ヴィンチは1452年にイタリアのヴィンチ村で生まれました。名前のヴィンチもヴィンチ村のレオナルドというような意味です。彼は非嫡出子として育てられたので正規の教育を受けさせてもらえず、祖父母に育てられたと言われています。

鏡文字と呼ばれる左利きが原因の字が反転したダヴィンチ特有の文字はこの時に書き方の矯正がされなかった事が原因と考えられています。

そして、14歳のときにフィレンツェのヴェロッキオ工房に弟子入りします。

当時の芸術家は絵画だけではなく、依頼主の希望に沿って彫刻や家具修理、楽器制作など「何でも屋さん」の側面がありました。

20歳頃には上のヴェロッキオの作品の中の天使の一人を描きましたが、ダヴィンチのレベルが高すぎたので彫刻が得意な師匠であるヴェロッキオは二度と絵を描かなくなってしまい専門の彫刻に専念するようになったという伝説が残っています。

20歳頃にプロの画家としてデビューした後、フィレンツェで彼は30歳頃まで大きな事を残す事なく過ごし、悩んだ末に戦いが絶えなかったこの時代に軍事技師として自分を売り込む事に成功しミラノに招かれる事となりました。

この頃から結婚式の演出や工学、建築など様々な仕事を任されますが、初等教育を受けていなかったダヴィンチは30歳からラテン語、数学をスタートに様々な知識を吸収して行きました。

それからも社会情勢の変化に伴って変わるパトロン(支援者・雇い主)のもとで様々な分野の功績を残しました。晩年はフランソワ一世に招かれてフランスで過ごし、67歳で亡くなりました。

ダヴィンチ本人によって描かれた事がわかっている絵画作品は極めて少ない事でも知られています。これは彼の完璧主義から乾きの遅い油彩でゆっくりと満足のいく描き方をしていた事と先ほど書いたような興味の向いた様々な研究に没頭してしまう飽きやすい性格のためと言われています。

レオナルド・ダ・ヴィンチの代表作「モナ・リザ」とは?

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ラ・ジョコンダ

「モナ・リザ」の名前で知られている世界で一番有名なレオナルド・ダ・ヴィンチの作品です。

絵のモデルはフィレンツェの大富豪の妻がモデルとも言われていますが様々な説があり、はっきりしたことはわかっていません。

透明に近い液状の絵の具を何層にも何層にも時間をかけて線を使わずにリアルに描かれている「スフマート」や大気の持つ性質から遠くの景色ほどかすんで見えるように描く「空気遠近法」など普段のダヴィンチの深い研究がふんだんに詰め込まれた一枚です。

現在はルーブル美術館に所蔵されており、制作されてから500年以上経っても話題性の強い作品です。

レオナルド・ダ・ヴィンチの代表作「最後の晩餐」とは?

最後の晩餐

当時のミラノの支配者、ルドヴィコ・スフォルツァに依頼され、三年をかけて描かれた壁画作品です。

この作品はイエスキリストが磔刑になる前夜に「この中に裏切り者がいる。パンを自分の肉、ブドウ酒を自分の血と思いなさい。」と言い周りの弟子たちが驚く聖書の一場面を切り取った一枚です。

作品には銀貨を手に握ったイエスキリストを裏切ったユダが描かれています。

本来、壁画作品はフレスコ画と呼ばれる素早く描く事が求められる技法が一般的でしたが、ダヴィンチはゆっくりと考えながら描くタイプの画家だったため、テンペラ画と油彩で漆喰の壁に描きましたが、上手く漆喰に浸透しなかった為ため、完成から数年で傷みはじめ、後年に他人に加筆された事などから近年に修復が行われました。

最後に

今回は、「レオナルド・ダ・ヴィンチはどんな画家で何をした人?生涯や代表作「モナ・リザ」「最後の晩餐」について」のテーマでお伝えしました。

レオナルド・ダ・ヴィンチは日本では室町時代頃の昔に現代の様々な技術に繋がるような突出しすぎた功績をたった一人で残しました。

現代でも度々映画や書籍にされたり、新しい作品や仕掛けが見つかったりとかなりの話題性のある人物で、語れる切り口はいくらでも出せますが本記事では大まかな生涯と代表作品を中心に構成しました。

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最後まで読んで頂きありがとうございました。

プロフィール
この記事を書いた人

2006年3月生まれ幼少の頃より細密、極彩色な自分の脳内だけに存在する空想世界の絵をアクリル絵の具を主に様々な画材で1年に140点以上制作。作品サイズは数㎝のグッズから数ⅿの巨大アクリル画まで様々。高校1年生の時の個展開催以来二人展、グループ展等展示活動を続ける。ターナーアワード、Liquitex the challenge【小松美羽賞】等受賞多数。日々制作の幅は広がり続け、各地での展示、プロジェクトの実現を構想中

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