こんにちは。画家の宮島啓輔です。
本記事では、現代でも度々メディアを騒がせるオランダの有名画家ヨハネス・フェルメールの作品、生涯、表現、エピソードに渡るまでわかりやすく解説していきたいと思います。
目次
ヨハネス・フェルメールとはどんな画家?(基本情報)

ヨハネス・フェルメールは、17世紀オランダのバロック期に活躍した画家です。
1632年にオランダのデルフトで生まれ、1675年に同地で亡くなりました。
現存する作品は約30点余りと非常に少ないですが、光の表現や室内空間の超絶技巧的な描写によって、現代ではオランダ絵画を代表する画家の一人として高く評価されています。
美術や織物商の家業を持ちつつ、画家組合にも属して絵を描いていました。
フェルメールの生涯(年表からわかる経歴)
1632年:デルフトで誕生(洗礼記録あり)
1640年代後半〜1650年代初頭:画家としての修業(師匠は不明)
1653年:カタリーナ・ボルネスと結婚/カトリックへ改宗
1653年:聖ルカ組合に加入(正式な画家として活動開始)
1650年代後半〜1660年代:室内画を中心に制作
1662年・1670年頃:聖ルカ組合の幹部を務める。組合の中で最年少画家として評価されていた。
1672年:仏蘭戦争により経済状況が悪化
1675年:12月15日没(43歳)デルフトの旧教会に埋葬。多額の借金が残る
フェルメールは、生涯のほとんどをオランダのデルフトで過ごしています。
また、幼くして亡くなったものも含めて14人の子どもがいたとされ、家庭的にも負担の大きい状況だったとされています。
フェルメールは死後、しばらくの間忘れられた存在でしたが、19世紀に入ってから再評価が始まりました。
人生に謎の多い画家とされるフェルメールですが、比較的早い時期からパトロン(経済的・社会的支援者)がいた事がわかっており、パトロンの死後20年にはじめてそのコレクションがオークションに出品されました。
一番の人気は、風景画「デルフトの眺望」

二番目はさらに安くなって現代では有名な「牛乳を注ぐ女」だったそうです。

現代の一番の人気作品は、言うまでもなく「青いターバンの少女(真珠の耳飾りの少女)」です。
フェルメールの作品数が少ない理由
フェルメールの作品は30点前後しか確認されていません。
これは同時代の画家と比較しても極めて少ない数です。
同じくオランダ生まれのゴッホの作品数は、約2000点以上です。
理由として、いくつかの点が挙げられます。
まず、制作に非常に時間をかけていたことです。
光の表現や質感の描写に強いこだわりがあり、短期間で量産するタイプの画家ではありませんでした。
また、フェルメールは画家専業ではなく、美術商としても活動していました。
そのため、制作に割ける時間が限られていた可能性があります。
さらに、彼が主に描いていた室内の日常風景は、当時の主流であった宗教画や歴史画と比べると市場規模が大きくありませんでした。
フェルメールの生きた時代での人気作品は、当時はあまり宗教画等に比べると格下とされた風景画だったとされています。
こうした背景もあり、大量制作よりも一枚ごとの完成度を優先する方向になったと考えられます。
フェルメールの代表作品と特徴 有名作品の見どころ
フェルメールの代表作として、特に知られているのは、【真珠の耳飾りの少女】【牛乳を注ぐ女】【デルフトの眺望】です。
『真珠の耳飾りの少女』

- 制作年:1665年頃
- 所蔵:マウリッツハイス美術館(オランダ・ハーグ)
- ジャンル:トローニー(特定人物ではない習作的肖像)
この作品は今ではフェルメールの中でも最も有名な一枚です。
モデルは特定されておらず、実在の人物ではなく「表情や衣装の研究」として描かれた可能性が高いとされています。
フェルメール真作を疑う声が上がるほど、他のフェルメール作品とは空気感の違う作品です。
画面構成は極めてシンプルで、暗い背景の中に人物だけが浮かび上がります。
現代は、背景部分は黒色に見えますが、描かれた当時は深い緑色だったという研究もあります。
また、この後に解説を続けますが、ターバン部分には、「フェルメールブルー」と呼ばれるウルトラマリンブルーの美しい青色が使われています。
注目ポイントは、頬や唇、そして耳飾りに当たる光です。作品を拡大して観ると、わずかなハイライトの点だけで描かれており、光の扱いの精度がよく分かる作品です。
『牛乳を注ぐ女』

- 制作年:1658年〜1660年頃
- 所蔵:アムステルダム国立美術館
- ジャンル:風俗画(家庭内の日常)
台所で牛乳を注ぐ女性を描いた作品です。
宗教・歴史画に比べると、題材自体は非常に素朴ですが、パンの質感や壁のざらつき、衣服の重さまで丁寧に描かれています。
注目ポイントは、左側の窓から差し込む光です。
牛乳の流れやパンの表面、壁の凹凸などに光が当たり、光の粒のような表現で描かれています。
これは、当時の最新技術であるカメラの原型となる機械を通してみた世界の光の見え方と似ており、フェルメールが制作に取り入れていたという研究もあります。
また、この作品では青と黄色の色彩のバランスが、補色となるように非常に計算されており、構図、表現、色彩のあらゆる角度から現代の私たちにも印象深い作品のひとつです。
『デルフトの眺望』

- 制作年:1660年〜1661年頃
- 所蔵:マウリッツハイス美術館
- ジャンル:風景画
室内画が多めのフェルメールとしては珍しい都市風景の作品で、彼が生涯を過ごしたデルフトの街が描かれています。
17世紀オランダでは都市景観を描く風景画自体は存在していましたが、フェルメールのような高い表現力や構成で描かれた例はそう多くありません。
当時のオランダ共和国は海上貿易によって繁栄しており、都市の景観はそのまま国家の豊かさを象徴する題材でもありました。この作品も、デルフトという都市の姿を記録する意味合いを持ちながら制作されたと考えられています。
画面には新教会(Nieuwe Kerk)など実在の建築が確認でき、地理的にも比較的正確に再現されています。一方で、構図は完全な記録ではなく、視点や配置には調整が加えられているとされています。
制作年代も比較的早い時期にあたり、後の室内画へ移行する過程の中での位置づけとしても注目されています。
フェルメールの作風の特徴「光の表現と画面構成」
ェルメールの作品では、多くの場合、画面左側に窓が設定され、そこから入る自然光を前提に構図が組まれています。
この配置は複数作品で共通しており、フェルメールのアトリエ説や元になった部屋があったとされています。



当時のオランダ海抜が低く、湿地帯や運河が多い土地です。空気中の水分量が多く、光が直線的に差し込むというよりも、拡散しながら広がる傾向があります。
また、北ヨーロッパに位置するため、太陽の高度が低く、強い直射光よりも斜めからの柔らかい光が室内に入りやすい条件にあります。
このような、オランダの地特有の事情も作品に影響していたという研究もあります。
「光の画家」と呼ばれるフェルメールは、次のような方法を使って淡い光を表現していました。
・具体的には、壁面に当たった光がわずかに色を変えて広がる
・衣服の折れ目に沿って明暗が段階的に変化する
・影の中にも青や灰色を含ませて単純な暗色にしない
といった処理が確認できます。
また、ハイライト部分には小さな点状の白が置かれており、これは光が物体表面で反射する様子を強調するためのものです。
「牛乳を注ぐ女」のパンの部分や、「真珠の耳飾りの少女」の唇部分に特にそのハイライトの描き分けが垣間見えます。
この技法は、「ポワンティエ技法」と呼ばれています

しかし、この描き方は、フェルメールは多用していますが当時の類例は殆どみられません。
さらに、当時のオランダでは大きな窓を持つ住宅が多く、室内に自然光を取り込む構造が一般的でした。フェルメールの室内画も、そのような生活環境を前提にした空間設定になっています。
当時の最新技術カメラ・オブスクラ使用説

フェルメールの描写については、「カメラ・オブスキュラ」の使用が指摘されています。
カメラ・オブスキュラとは、外の景色をレンズや小孔を通して室内に投影する装置です。
現代のカメラの原型になった機械です。
この機械を通してみえる世界には、ピントが合ってない部分がぼやけたり、光が点状ににじんだり、遠近の差が強調されたりします。
現代のカメラで強い光を撮影すると、光が粒上にとんだように映る時と似ています。
フェルメールの作品にも、
- 背景のぼかし
- ハイライトの粒状表現
- 焦点の偏り
といった特徴が見られるため、この機会の影響があった可能性が指摘されています。
ただし、実際に使用していたことを示す直接的な記録は残っておらず、あくまで技術的類似性に基づく仮説です。
フェルメールブルーの秘密 ラピスラズリの使用と最高級顔料の分析結果
フェルメールの作品に見られる青は、天然鉱石ラピスラズリから作られる顔料「ウルトラマリン」によるものです。
当時は、現代のようなチューブ絵の具では無く、画家自身がアトリエで乾性油と顔料を練って絵の具を自作していました。
この顔料は、当時はアフガニスタンでしか採掘されず、その貴重な鉱石を風車の力で砕いて粉にして作られていた為、17世紀当時は金と同等かそれ以上に効果でした。
現代では、「ウルトラマリンブルー」の色は合成顔料が使われていますが、ラピスラズリがから作られた絵の具が画材屋で高価な値段で出回る事もあります。
フェルメールは、この高価な顔料の青色を作品に多く使っていました。
その青の美しさから、「フェルメールブルー」の呼び名がつきました。
また、このウルトラマリンブルーの青色は、西洋絵画において聖母マリアのマントを描く際にも使用される事が多い色でもあります。
フェルメール再評価の経緯
フェルメールは現在では高く評価されていますが、生前から現代までずっと評価され続けていたわけではありません。
フェルメールの死後17世紀末から18世紀かけてはほとんど知られない存在となり、作品は他の画家のものとして扱われることもありました。
転機となったのは19世紀半ばです。
フランスの美術評論家でありジャーナリストでもあったテオフィル・トレ=ビュルガーが、1840年代にオランダ絵画の調査を行う中でフェルメールの作品に注目します。
1866年の論文や展覧会で、フェルメールの作品を紹介し、現代の「光の魔術師」の評価の土台を築きました。
その後、19世紀後半から20世紀にかけて、作品の真贋研究が進み、フェルメールの作と認められる作品は徐々に絞り込まれていきました。
現在では30数点に整理されています。
【贋作事件】ハン・ファン・メーヘレンによる偽作とナチスとの関係
フェルメールの近代の歴史の過程で特に重要なのが、20世紀に起きた贋作事件です。
オランダの画家ハン・ファン・メーヘレンは、1930年代から1940年代にかけて、フェルメールの新発見作品とされる絵画を制作しました。
彼の贋作は非常に巧妙で、当時のキャンバスや顔料を使用し、人工的に経年劣化を再現していました。
また、フェルメールの作風の空白部分を埋めるような作風を研究して構成を模倣しました。
その結果、これらの作品は当時の専門家によって本物と認められ、美術館やコレクターに高額で購入されます。
中にはナチスの高官ヘルマン・ゲーリングに渡った作品もありました。
しかし第二次世界大戦後、メーヘレンはナチスへの協力の疑いで逮捕されます。
その際、彼は自ら「それは贋作であり、自分が描いた」と主張します。
しかし、当初は嘘をつく詐欺師と扱われたメーヘレンは、拘留中に新しいフェルメールの贋作を描いてみました。
その様子から、民衆はメーヘレンの贋作という主張を信じました。
そして、ナチスにフェルメール作品を売った売国奴という扱いから、逆転して、ナチスを騙した存在として人気が高まりました。
そして裁判の結果、ナチスに対する絵画の詐欺販売の罪は問われなかったものの、サイン偽造等の詐欺罪等で禁固一年が言い渡されますが、実刑を受けるよりも前に、心臓発作で亡くなりました。
ここで感じる事は、多くの人は、絵画そのものの美しさより、真作か贋作かという鑑定結果に左右されている点です。
「これは、真作です」と言われれば良い作品に観え、贋作だと聞くと大幅に見方は変わります。
作品の価格というものを決定する要素が、どんなものがあるかという事を考えさせてくれる事件です。
まとめ
今回は、オランダバロック時代の西洋美術史の有名画家ヨハネス・フェルメールについて代表作やエピソード等を交えて紹介してみました。
カメラオブスキュラを取り入れていたり、画材へのこだわり、死後の評価の過程なども現代のクリエイターが学べるエッセンスが感じられます。
他にも創作や旅、美術史などについての記事を多数公開しているので是非読んでみてください。
最後まで読んでいただきありがとうございました。

