こんにちは。画家の宮島啓輔です。
2026年5月16日、大阪中之島美術館で開催されている『没後50年高島野十郎展』に偶然足を運ぶ機会がありました。
普段このサイトでは、創作やアート、旅などの記事を掲載していますが、それは読みやすくできるだけ複雑な単語は使わず、「です・ます調」で、わかりやすく伝える事も目的にした書き方で書いています。
ただ、その裏には人に読んでもらう為では無く、自分の備忘録や言語化のメモとして、読み手の視点や反論を一切気にせずに書き溜めた文章ストックがあるんですね。
元々大学で書いた芸術人類学のレポートや自分の理解の為に書いたものなので、ほぼ全部が「~だ・である調」で堅いレポート形式なものばかりです。
そこで、今回は珍しく、そんなストックの一部にあたるほぼ自己満足で書いた美術館に足を運んだ時のレポートを最大限整合性のある形にまとめたので、ここに公開したいと思います。
それでは、以下に「【美術館レポート】没後50年高島野十郎展 大阪中之島美術館」が続きます↓
【高島野十郎における発達特性・仏道修行としての画業と『蝋燭』】
1.はじめに
2026年5月16日、私は大阪中之島美術館で開催されている『高島野十郎展』と『驚異の部屋の私たち、消滅せよ』の2つの展覧会に足を運んだ。私は美術鑑賞を行う際、2つの立場があると考えている。一つ目は、純粋な受け手としての鑑賞者視点。2つ目は創作者視点である。私は、主に後者の創作者視点に主に重きを置き、いかにしてその対象の創作者や作品、文脈、展示環境等から学び取れる点や共鳴する要素は無いかと模索し、本展示を鑑賞した。それらを前提として、今回、私は『高島野十郎展』から彼の孤独な制作スタイルやこだわり、仏教との関わりなどいくつかの共感する人物像がうかがい知れた。そこで、本稿では彼の孤高の画家としての人物像に現代の心理学の発達特性や仏教的価値観との親和性という仮説の補助線をひき、彼の人物像と「蝋燭」作品を読み解いていくというテーマのもとに再考していきたい。
2.展示について
本展示は、作品と合わせて彼の経歴、人物像、手紙や知人の話などからその全体像が語られていた。入ってすぐのパネルに記載されていた福岡県の裕福な家に生まれ、東京帝国大学を主席で卒業という異色の経歴がまず興味を引いた。そこから物質的な成功などとは無縁のガスも水道もない生活で美術団体にも属さず、画家としての道を歩んだという話が、ひとつの小説のような文脈を持っている。大学の恩師を描いた人物画もその人生のストーリーを辿るような構成だったのが印象的だ。そして、ゴッホからの影響や自然物を描いた作品も野十郎という主人公を描いた脚本の挿絵のように感じられる流れが感じられた。展示後半には、蝋燭の連作や抽象画に近い油彩画が並び、彼が何か言い表し難い空の境地に独りで辿り着いたようにも思える。まとめると私が、展示全体を通して受け取った要点は、「物質的豊かさを捨てた孤高かつ異色の経歴」「仏教的価値観への傾倒」である。
3.展示をみて考えたこと、調べたこと
では、展示で受け取った要点の前者「物質的豊かさを捨てた孤高かつ異色の経歴」から考えた事について書く。私はここで、現代の自閉スペクトラム障害という特性論との親和性について示したい。彼を病跡学の視点から捉え直し、その特性が彼の人生や作品に与えた影響について考察する。しかし、当時の医学的な記録や公的判断が残されていない以上、推測の域を出ず、軽率のそしりを免れない事を前提とする。
まず、「自閉症スペクトラム障害」の特性について大きく3つの要素を挙げておく。一括りに示しても、症状の現れ方には個人差がある事を前提とする。では、3つの主な特性とは「対人関係やコミュニケーションの苦手さ」「興味関心、能力のかたよりと強いこだわり」「感覚の過敏または鈍麻」である。これらの特徴は日常生活ではデメリットとして現れる事もあるが、その興味の偏りなどから高いパフォーマンスを発揮する事もある。過去の偉人の功績はそれらの発達特性によって生み出されたものであるという見解が現代になってなされる事は多い。また、それらの診断は通常の性格とグラデーションを持って現れる事も多く、診断の難しさや時代によって特性の位置づけられ方は変わるという点は存在する。
彼が高機能の自閉スペクトラム症特性を持っていた事を思わせるエピソードとして、ひとつめに「学術的優秀さとその後の進路選択」が挙げられる。東京帝国大学を主席で卒業しながらも官僚や研究者の道を捨て、無名の画家を選んだ点だ。そして「社会的な孤立と独自の生活様式」である。彼は画壇には属さず、生涯独身を貫き、後半生は自作の小屋で晴耕雨読の生活を送った点だ。そして人付き合いを嫌ったわけではないものの、独自の道徳観や強いこだわりを持って、世俗的妥協を許さなかった点である。
そしてそれらの特徴は作品に現れた過剰な集中とこだわりからも垣間見える。一つ目に写実表現の極致である。徹底的な観察眼で描かれた『からすうり』やその他の静物画にみられる狂気ともいえる細部への執着だ。これは、緻密な描写から現代においてASD傾向が指摘される伊藤若冲の系譜に通じるものがある。また文学界において、完璧主義や規律正しい言語能力の高さから同特性の傾向が指摘される三島由紀夫が、その美へのこだわりから独自の思想的実践(三島事件)へ至った精神性とも、どこか重なり合う。
そして二つ目に「作品の連続性・執着性」という視点も重要である。生涯で何度も描かれた「蝋燭」や「月」のシリーズである。自閉症スペクトラム障害特性のひとつに興味のある物事、自分なりのマイルールや手順に固執し、深く極めるというものがある。彼の一つのモチーフを突き詰める精神と繋がる部分があるのではないだろうか。
では、次に冒頭に挙げた要点の後者である「仏教的価値観への傾倒」に移る。彼は青年期から長兄の影響もあり、自ら座禅を組み、仏教に深く傾倒していた。ここで私の仏教に関する考えを書き記したい。私は仏教と一言で表しても、大きな分け方として、原始仏教と禅、大乗仏教はかなり性格が異なるものであると考えている。科学的な合理性からみると、仏陀が説いた原始仏教の教義は現代のメンタルヘルスにも繋がる非常に合理的、実践的な哲学だ。特定のカリスマ性に依存しない、普遍的かつ合理的な思想体系である 。しかし、大乗仏教においては広く普及させる為とはいえ、一概には言えないが菩薩や観音などとフィクション要素が強くなる。キリスト教やイスラム教に近い性格であるまず超常的存在の信仰という前提が必要になる。しかし、大乗仏教から派生した禅は長い経典を読むより今ここに集中する実践的な仏教といえる。話をまとめると、仏教には実践科学として向き合える要素があると言う事だ。初期仏教が昔、一部エリート層の学問であったという事と高学歴な野十郎とがリンクして見えた。
もう一歩踏み込んだ考察を付け加えると、彼の蝋燭の作品は護摩壇の火を投影した存在では無いかという推測だ。密教における護摩とは悩を象徴する薪を仏の智慧の火で焼き尽くし、清浄を祈る儀式である。 こう書くと宗教的なニュアンスが強くなるが、護摩壇の火をじっと見つめる事は、瞑想に近い集中力を養い、原始仏教における「正念」の概念と心の浄化を目指すという意味で根本では繋がっている。そして、彼は晩年、空海の真言密教に傾倒し、四国遍路や観音霊場などの札所巡りに熱心に足を運んでいたそうだ。そして、彼の「蝋燭」の作品もまた、暗闇の中で燃え続ける火が描かれている。密教的な解釈をするならば、暗闇を無明や煩悩と捉え、そこで燃える火がそれらを燃えつくす護摩壇における智慧の火と重なる。また、彼は「写実の極致は慈悲」という言葉を残している。これは私の解釈であるが、彼の狂気的にこだわりぬいた写実表現が、実は仏教における「他者や万物への祈り・慈悲」という精神的昇華あるいは独自の信仰の手段であり、彼の人生が絵画という手段を通じた修行であったのでは無いだろうか。この仮説から私は彼の人生が仏陀の人生と重なって捉えられた。広く知られている通り、仏陀は今から約2600年前のインドネパール周辺のルンビニにて、シャカ族の王子として生まれた。彼の出家までの人生は、物質的には非常に満たされた当時の社会でも類を見ない豊かさを手にしていただろう。しかし、彼はその後、王の地位やあらゆる豊かさを捨てて80歳で入滅するまでの間、修行者として生きた。私は、この物質的な豊かさや地位を捨てる姿が、野十郎の東京帝国大学卒業後に手に入れる事のできた官僚や研究者としての社会的には評価される地位を捨てて画業に独り歩んだ姿と重なってみえたのだ。
4.おわりに
私は、ここまで高島野十郎という一人の画家の人生を、その性格特性、そして仏道修行者として考察してきた。ここまでの流れから私は、ひとつの確信に至っている。それは、言葉の強い表現になるが、行動や文脈を伴わないアウトプットされたものは無力である、という事だ。中国の陽明学の言葉を借りるならば「知行合一」である。無力というニュアンスが完全にゼロというわけでは無いが、今回の野十郎の展示を観ても、彼の人生や行動哲学、仏教という行動あるいは文脈を伴う作品が強い力を持ち、彼の死後である2026年にこのように評価されている事は自明である。実際に現代の生成AI技術によって、人間よりも遥かに精巧かつ素早く作品そのもののヴィジュアル自体は生みだす事ができる。私は生成AIも本質的には人間と同じであり、肯定派であるが、生成AIはプロセスや文脈、身体性というものの内在率は人間のそれと比べるとかなり薄いと考えている。人間がAIを手段として駆使して制作する場合もあるため、完全に作者の身体性や文脈を伴わないわけでは無いが、その密度を比べるとやはり薄い。つまり文脈や物理的な身体性を伴わずして、仮に生成AI技術によって、野十郎の蝋燭のような作品を出しても、それは野十郎によって描かれた作品と比べると非常に無力だ。これは、スポーツにも言える事である。単純に移動効率を測るならば車やジェット機などのエンジンを搭載したものを使うのが最も効率が良い。しかし、人間はオリンピックという大会を開き、世界中のトップアスリートが本気で鍛え、汗を流して速さを目的に走るその身体性に熱狂する。つまり、私は今後の芸術だけでなくあらゆるものの鑑賞において、観念的、表面的なものだけでなく、それを凌駕するような「身体性」「文脈」、そして頭の中だけでなく肉体を伴う「実践」が絡んだ存在へのアプローチを、自らの創作と鑑賞の強固な支柱にしていきたいと考えている。

