【旅行記】インドと日本の「死」を隠さない文化の違いについて。バラナシで見た生と死のリアル

海外旅

こんにちは。画家の宮島啓輔です。

2026年2月、インド数都市を2週間ほどかけて周ってきました。

インドは、ヒンドゥー教が広く信仰されている宗教大国で、人口も最近中国を抜いて世界一になりました。話には聞いていましたが、これまで以上に濃く、異文化を感じた場所でした。

今回の旅では、一度の記事にまとめきれないほど多くの体験があったのですが、その中でも特に印象に残ったのが、「死に対する捉え方の違い」です。

私は、以前、タイ・バンコクのシリラート医学博物館で大量の人体標本をみました。そして、様々な死の在り方を間近に感じました。

この記事では、日本とインドの「死」に対する捉え方の違いについて、感じた事を書いていきます。

日本はなぜ「死を隠す文化」なのか

まず、前提として日本では「死」は基本的に日常から切り離されるものとして扱われています。

例えば、

  • 葬儀は専用の場所で行われる
  • 火葬場は街の中心から離れている
  • 身内に不幸があった年は年賀状を控える

こうした習慣からも分かる通り、日本では死は「穢れ」や「避けるべきもの」として扱われる傾向があります。(もちろんインドにもその感覚はありますが。)

宗教的にも、神道では死は不浄とされる概念があり、生活空間と切り離す方向に文化が形成されてきました。

日本では、死はできるだけ視界の外に置くもの

として扱われていると言えます。

インド・バラナシで見た「死が日常にある風景」

一方で、インド・バラナシではまったく逆の光景が広がっていました。

バラナシは、ヒンドゥー教最大の聖地の一つであり、ガンジス川のほとりに位置する都市です。

この街では、死は隠されるものではなく、むしろ積極的に受け入れるように生活の一部に存在しています。

ガンジス川沿いには火葬場があり、そこで人が焼かれている様子がそのまま見える状態にあります。
日本のような高温の密閉された火葬施設ではなく、薪を積み上げて屋外で燃やす「野焼き」です。

写真撮影OKと言われた方の火葬場

煙が立ち上がる中で、子どもが遊び、食べ物が売られ、人が普通に生活しています。

生と死が完全に同じ空間に存在しているのです。

「死を待つ人の家」

さらに、特徴的なのが、「死を待つ人の家」と呼ばれるものがあります。

これは、自分の死期が近いと感じた人が、家族と別れてガンジス川の近くに移り住み、最期の時を迎えるための場所です。

ヒンドゥー教では、ガンジス川で火葬され、その灰を流してもらうことが非常に大きな意味を持ちます。


輪廻からの解脱(モークシャ)に近づくと考えられているためです。

彼らにとっての死生観は、避けるものではなく、誰もが待ち受けているからこそ、積極的に死んでいく通過点のように考えているのです。

火葬されない修行者サドゥーと子ども

バラナシの火葬には例外もあります。

焼かれない存在として知られているのが、

ヒンドゥー教の修行者サドゥーと幼い子どもや妊婦です。

現地で貧しい子どもに英語を教えているという教師の人が丁寧に教えてくれました。

サドゥーは世俗から離れた存在であり、すでに戸籍的には「死んだ者」と見なされる側面を持っています。


また子どもは「穢れていない存在」とされるため、火葬されず、そのまま川に流されることがあります。

バラナシの街では、服を殆ど着ていないサドゥーが街中やガンジス川のほとりを闊歩しています。

インド社会の基盤になっているのが、衛生や合理性よりも先に、宗教的な価値観によって構成されているのです。

ヒンドゥー教の設定的に、死ぬ事が終わりではなく、あくまで通過点として考えているからこそ、生と死が連続しており、生活の一部に同居しているのかもしれません。

常に死が身近にあるからこそ、生きている事の実感が非常に強く、毎日を必死に生きている人達で溢れています。

「シャンティ」という感覚 

インドには、「シャンティ」という考え方・感覚があると修行僧に教えてもらいました。

シャンティとは、サンスクリット語で安らぎや静けさを意味する言葉です。

バラナシという街は、

貧困と富

混沌と秩序

生と死

瞑想と麻薬

美と卑

詐欺と人情

のあらゆる事においての振れ幅が非常に大きい場所です。

日本は、色々な事が、比較的高水準の平均に収束しる社会ですが、インドは極端な差が同時に存在しています。

だからこそ、その中で感じる静かさや綺麗さというものは、

対極に大きなカオスがあるからこそ、浮かび上がるものなのかもしれません。

死が近いからこそ生が際立つ

実際にバラナシを歩いていて感じたのは、先述の通り、驚く程死が身近に存在します。

路地を歩いていても、オレンジ色の布にくるまれたご遺体を数人の人間が、火葬場まで運んでいきます。

野良犬や野良牛が、ゴミをあさり、片腕の老人がその日食べるもののために物乞いをし、幼い子どもが金銭をねだってきます。

飲食店で、ご飯を食べながら窓の外をみると、地面を這いながら必死に物乞いをする人をみると、こちらも少し食べづらくなるのです。

日本の感覚だけでみると、ネガティブな文脈に聞こえますが、

整いすぎた環境では、気づかないうちに蓋をしてみえない存在が、

混沌とした中では逆に際立って見えてくるのです。

これは、単に美化をしているのではなく、

環境の違いによって、今自分が今当たり前と思っている環境が

非常に感謝すべきものだと感じ、足るを知る事で、

感じ取れるものの重みが変わるという話です。

まとめ 死をどう扱うかがその社会の本質に影響する

日本は死を隠す文化、
インドは死を隠さない文化。

どちらが優れているという話ではありません。

ただ言えるのは、
死の扱い方が、その社会の価値観を強く反映しているということです。

そしてもう一つ重要なのは、
死の距離感が、生き方の感覚にも影響を与えているという点です。

死をどの距離感で捉えるかが日常の実感や、価値観に影響しているように感じました。

最後まで読んで頂きありがとうございました。

プロフィール
この記事を書いた人

2006年3月生まれ幼少の頃より細密、極彩色な自分の脳内だけに存在する空想世界の絵をアクリル絵の具を主に様々な画材で1年に140点以上制作。作品サイズは数㎝のグッズから数ⅿの巨大アクリル画まで様々。高校1年生の時の個展開催以来二人展、グループ展等展示活動を続ける。ターナーアワード、Liquitex the challenge【小松美羽賞】等受賞多数。日々制作の幅は広がり続け、各地での展示、プロジェクトの実現を構想中

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