現代は、他人の価値観に触れる機会が非常に多い時代です。
スマートフォンを開けば、SNSを通して誰かの生活や考え方が流れてきます。
おすすめされる動画や記事も、アルゴリズムによって次々と目まぐるしい情報が洪水のように目の前に表示されます。
そうした環境自体は非常に便利であります。
自分一人では知ることのできなかった考え方に触れられ、他人の経験から学ぶことの障壁も昔に比べて低くなったといえます。
一方で、外側から入ってくる情報があまりに多くなると、「自分は本当はどう考えているのか」という芯の部分が見えにくくなることもあるのではないかと思います。
誰かが良いと言っているから良い。
周囲がそうしているから自分もそうする。
評価されているものだから価値がある。
もちろん、社会の中で生きる以上、他人の価値観をまったく気にせずに生活することはできません。
私自身も、他人から影響を多分に受けながら生きています。
問題の核心部分は、知らないうちに自分自身の判断を外側へ明け渡していることにあるのかもしれません。
そんな事を考えていたときに出会い、本記事の核心でもある言葉があります。
「犀の角のようにただ独り歩め」
初期仏教の最古経典の一つである『スッタニパータ』に繰り返し登場する言葉です。日本では中村元訳『ブッダのことば スッタニパータ』によって、この表現を知った方も多いと思います。
初期の仏教は、現代の日本にある大乗仏教とはまた異なり、科学的で現代のマインドフルネス的な側面を持っています。
今回は、この「犀の角のようにただ独り歩め」という言葉について、その意味や背景を見ながら、現代を生きる私たちにとって「独り歩む」とはどういうことなのかを考えてみたいと思います。
目次
「犀の角のようにただ独り歩め」とは
この言葉が登場するのは、仏教の開祖ブッダの言葉がかなり直接的に残っているとされる『スッタニパータ』第一章第三節の「犀の角」です。
古代インドの言葉パーリ語の原典では、
eko care khaggavisāṇakappoというものです。
日本では、一般的に「犀の角のようにただ独り歩め」と訳されています。
群れを作らず単独個体で活動するインド(犀)サイにブッダが喩えたものとされています。
ただし、ここは少し面白いところで「犀の一本角のように」と読むのか、「犀そのもののように」と読むのかについては、古くから解釈があります。
伝統的な注釈では一本だけ突き出したインド犀の角になぞらえた表現とされますが、研究者や翻訳者の中には、単独で行動する犀そのものを比喩としていると考える立場もあります。
どちらにしても、ここで繰り返し描かれているのは、何かに絡め取られず、自分の足で進んでいく姿です。
『スッタニパータ』では、人との交わりによって愛着が生まれ、その愛着から苦しみが生まれること、欲望や執着によって心が乱されることなどが説かれ、そのたびに「独り歩め」という言葉が繰り返されるかたちで構成されています。
文章だけを見ると、かなり徹底した孤独を勧めているようにも感じられます。
しかし、私はこの言葉を、そのまま「人間関係をすべて断ち切って孤独に生きろ」という意味だけで捉える必要はないと思っています。
「一人で生きろ」という意味ではない
『犀の角』の中には興味深い一節があります。
賢明で、ともに歩むにふさわしい友を見つけたなら、その人と喜んで歩め。
しかし、そのような友を得られなければ、独り歩め。
さらに、良い友を得ることそのものを称賛する一節もあります。
つまり、この経典は単純に、
「人付き合いは悪い」
「友人など必要ない」
と説いているわけではありません。
問題にしているのは、人との関係そのものではなく、それに心が縛られてしまうことなのであると思います。
様々な関わりから学ぶ事や良い面を受け取ることはできるが、しかし、それによって自分自身の判断や心まで失ってしまわない。私は「犀の角のようにただ独り歩め」という言葉をそのような精神的自立を表したものとして受け取っています。
孤独になることと、自立することは、似ているようで少し違います。
他人の価値基準の中で生きる現代
この言葉が残された2500年以上前と現在の生活環境はまったく違います。
当時のインドにはスマートフォンやSNSもありません。
しかし、人が周囲から影響を受け、集団の中で生きているという本質部分では、今も大きく変わらないのかもしれません。
むしろ現在では、その影響を受ける量が圧倒的に増えています。
SNSを開けば、何百人、何千人という人の意見が流れてきます。
何を買うべきか。
どこへ行くべきか。
どう働くべきか。
何歳までに何をするべきか。
何を持って成功とするのか。
便利n情報が増えた一方で、常に何かしらのものさしに触れている状態でもあります。
他人のものさしを借りてくることは非常に便利であります。
毎回すべて自分で考える必要はなくなるからです。
しかし、借りた物差しと自分自身の感覚との間に少しずつズレが生まれると、どこかでその落差に苦しくなることがあります。
周囲から見れば順調なのに、なぜか納得できない。
評価されているのに、あまり嬉しくない。
正しいと言われている道を進んでいるはずなのに、どこか違和感が残る。
それは、自分自身の感覚と、外から与えられた価値基準との間に距離が生まれているからかもしれません。
だからといって、社会から離れればよいという話でもありません。
他人の意見を聞かず、自分だけが正しいと思い込むことも、また別の独善性を持った危うさがあります。
求められるものは、外側の世界を遮断して拒絶することではなく、一度自分の中に持ち帰ることなのだと思います。
これは自分にとってはどうなのだろう
と考えて思考を醸造する時間を残しておくための、距離感こそが、「独り歩む」という言葉の中には含まれているように感じます。
誰にでも「独りで決める瞬間」がある
人間は、一人だけでは生きていけません。
家族や友人、仕事や社会、インフラを支える存在の関係の中に生活しています。
それでも、最後には誰かには代わってもらえないことがあります。
どこへ行き、何を選び、何を作り、何を大切にするか、まで人から意見を聞き、相談する事もできます。しかし、最終的にその人生を経験するのは自分自身です。
「犀の角」という言葉は、そんな場面で思い出すにはちょうどよい言葉なのではないかと思います。
一つの物差しで世界を測らないために
私は、海外へ旅行に行くことが好きです。
インドからオーストラリア、東南アジア各地まで、いくつかの場所を一人で歩いてきました。
そのような話をしたり記事を書くと、海外かぶれであるとか、自国の良さに気づいていないなどど暗に言われる事がありました。
しかし、日本という社会や文化を否定したいから別の可能性を求めて海外へ行くわけではありません。
むしろ、外へ出ると相対的に日本という場所がよく見えることがあります。
一つの物差しだけを持っていると、その物差しが絶対的なものに見え、それに反するあるいは異なる存在が不透明になり、不安が増大し、下にみるという視野狭窄が起こる可能性があります。
しかし、世界には、または本やネットにおいてもそこら中に転がっている情報の海には、まったく違うものさしがあります。
しかし、それらを旅行でたくさん見たからといって、世界のすべてを理解できるわけではありません。
ただ、異なる物差しが存在していることを知るだけでも、自分や自分が所属している存在を少し離れた所から俯瞰することができます。
いくつもの物差しを見たうえで、自分はどれを使うのかを考える。
私にとって、本や旅行のような外の世界に触れるという事には、そういう意味もあります。
インドで「犀の角」という言葉に出会った
2026年の春、私は北インドを横断しました。
その旅の序盤、『地球の歩き方』を開いていると、見開き部分にインド犀の写真とともに、
「犀の角のようにただ独り歩め」
という言葉とともにいくつかの仏教から引用した句が掲載されていました。
一人旅をする人間の背中を押す言葉として紹介されていたのだと思います。
私も最初はそのように読みました。
一人で知らない国を歩くときには、よく似合う言葉です。
しかし、帰国してから『スッタニパータ』を読み、この言葉について調べていくと、単に「一人旅をしよう」という話ではないことが分かってきました。この言葉は、もっと広い意味での「執着しすぎないこと」や「自分自身の足で歩くこと」でした。
そして、その言葉から旅の途中、飛行機が遅れていた合間に一枚の絵を空港で描きました。

この作品は、私が続けている旅行画シリーズのインド編、その一枚目として制作したものです。
旅先で見た風景をそのまま描いた作品というより、旅に出る前後の自分自身の感覚も含めて描いています。
ここから、旅の道中で様々なものに触れるために、自分の中にも一本の軸を残しておくという意味も重ねています。
自分の中に戻ってこられる場所をつくる
以前、私はこのブログで「自分の中に聖地をつくる」という記事を書きました。
少し宗教的に聞こえる題名ですが、そこで書いた「聖地」は、特別な信仰の場所という意味ではありません。
どんな環境に行っても、一度戻ってこられる自分自身の場所を持っておく、という意味で使っています。
仏教には、後世に成立した唯識という思想があります。
唯識では、私たちが経験している世界と認識の働きが深く結びついていることが考察されました。
同じものを見ても、人によって感じ方は違います。
同じ出来事でも、受け取り方によって経験は変わります。
だから私は、外側の世界を変えることだけではなく、それを受け取る自分自身を育てることも必要なのではないかと考えています。
これは「犀の角」にも少し通じています。
外側をすべて遮断するのではありません。
外へ行き、人と出会い、本を読み、知らないものを見る。
しかし、そこから受け取ったものを、一度自分の中へ持ち帰る。
必要なら考えを変え、影響を受けてもいいけれど、そのうえで自分がどこに立っているのかだけは、ときどき確認する。
それが私にとっての「自分の中の聖地」であり、「犀の角」でもあります。
作品【犀の角】と個展について

今回紹介した作品「犀の角」は、2026年のインド旅行をきっかけに制作した旅行画シリーズの作品です。
現在開催している東京・銀座での個展【犀の角】でも、旅や宗教、民族文化などから影響を受けて制作した作品群を展示しています。

それでは最後まで読んで頂きありがとうございました。




