こんにちは。画家の宮島啓輔です。
私は旅行が好きです。
インドをはじめ、アジアのさまざまな国を歩き、知らない文化に触れ、知らない街を見て、そこで暮らしている人々と接する。自分の知らなかった世界に触れること自体が、私にとって非常に面白いことです。
一方で、そういう話をすると、「知らない土地に行って疲れないのか」「まったく違う環境に飛び込んで大丈夫なのか」と聞かれることがあります。
たしかに旅先には、自分の思い通りにならないことがたくさんあります。
言葉が通じない。文化も違う。予定通りに進まない。日本では当たり前だったことが、まったく通用しないこともある。
ただ、これは海外旅行だけの話ではありません。
日本で普通に生活していても、人はさまざまなものに振り回されます。
誰かに何かを言われた。周囲とうまくいかない。今の環境が自分に合っていない。自分の現状に満足できない。
「ここではないどこかへ行きたい」と感じることもあるでしょう。
そうしたとき、多くの人は自分に合う環境を探します。
今いる場所が合わないなら別の場所へ行く。今の仕事が合わないなら、別の仕事を探す。日本が合わないと感じるなら、海外へ行ってみる。新しい知識を得たり、本を読んだり、さまざまな人の考えを知ったりする。
もちろん、それは大切なことです。
私自身、新しい場所へ行き、新しいものを見ることが好きです。外の世界へ向かっていくことを否定するつもりはありません。
ただ、それとは別に、もう一つ方法があるのではないかと思っています。
それが、自分の中に聖地を作ることです。
目次
自分に合う場所を探し続けても終わりがない
完璧に自分にフィットする場所を探そうとすると、おそらく終わりがありません。
最初は素晴らしいと思った場所でも、長くいれば欠点が見えてきます。
理想だと思っていた人にも嫌な部分があります。憧れていた国にも問題があります。自分に向いていると思った環境でも、しばらくすれば不満が出てくるかもしれません。
そして、「やっぱりここではなかった」と思い、また次の場所を探します。
もちろん、それが向上心になることもあります。
より良い環境を求めることで人生が動くこともあるでしょう。
しかし、外側だけを変え続けながら、自分自身の認識や内面がまったく変わらなければ、場所を変えても同じ事を繰り返す可能性があります。
だから私は、外側の環境を変えることと同時に、自分の認識そのものにも目を向ける必要があると思っています。
世界は「認識」を通してみえている
仏教には、心理学的、心理療法的に非常に科学的な知恵が詰まっています。その仏教の中に「唯識」という考え方があります。
かなり大まかに言えば、私たちが経験している世界は、心や認識の働きと深く結びついているという考え方です。
同じ場所にいても。人によって見えている世界はまったく違います。
ある人にとっては退屈な街でも、別の人にとっては刺激に満ちた街かもしれません。
ある出来事を失敗と思う人もいれば、面白い経験だったと思う人もいます。
外側に存在している世界が同じでも、それをどのように受け取るかによって、自分が生きている世界gはかなり変わります。
そう考えると、「自分に完全にフィットする世界」を外側に探し続けるだけではなく、世界を受け取る自分自身を作っていくという方法もあるはずです。
私はそれを「自分の中に聖地を作る」と考えています。
自分自身を目的地にする
聖地というと、遠く離れた観光地や日常から切り離されたところなど特別な場所を想像するかもしれません。
インドの寺院やガンジス川、歴史ある宗教施設、雄大な自然。
実際、そういう場所へ行けば、それまで知らなかったものを見ることができます。
しかし、自分の寄り所をすべて外側に置いてしまうと、それを失ったときに自分まで不安定になります。
だからこそ、自分の内面にも一つの居場所を作り、自分自身が帰ってこられる場所を持っておくことで、
どこへ行っても
どんな環境におかれても居場所を失うことが無くなります。
言葉の通じない国にいても、知らない街にいても、人間関係が変わっても、環境が大きく変化しても、自分の中には戻ってこられる場所があります。
自分自身に完璧に合う目的地を永遠に探し続けるのではなく、自分自身を目的地(聖地)にしてしまうという事です。
その状態を私は、「自分の中に聖地を作る」と表現したいと思っています。
外の世界は、自分の聖地を育てる肥料になる
では、自分の中に目的地、聖地を見出したら、外の世界に旅をしたり本を読んだりといった情報に目を向ける必要はなくなるのか。
私はそうは思っていません。むしろ逆です。
私が海外を旅行する理由をここにあります。
私は、自分の内面を先ほど目的地(聖地)のように表現しましたが、一つの土地や畑のようなものだとも考えています。
そこに外の世界から入ってくる経験や文化、知識、人との出会いを加えていくということが旅です。
これらは、すべて自分という土地を肥沃にする肥料になります。
つまり、外側への旅行は、自分の中になる聖地や居場所を置き去りにして別の環境を探しにいくものではありません。
植物は肥料無しでも育つものがあるように、行かなくても大丈夫だけれど、自分という一つの聖地を、より柔軟で、より肥沃な場所にしていくための度でもあるのだと思います。
外の世界から情報を遮断して、自分の殻に閉じこもれという話ではありません。
外側に向かうことと、内側に向かうこと。
その両方が必要であります。
外の世界から情報を遮断して、自分の殻に閉じこもれという話ではありません。
外側に向かうことと、内側に向かうこと。
その両方が必要です。
問題なのは、外の世界から情報だけを大量に取り込みながら、自分の内面をまったく動かさないことです。
知識を増やす。
場所を変える。
人と会う。
新しいものを見る。
それだけで終わるのではなく、その経験によって、自分の中がどう変化したのかを見る。
その作業によって、旅も知識も経験も、自分の血肉になっていくのだと思います。
私が一人旅を好む理由
私は複数人で旅行するより、一人で旅をする方を好みます。
もちろん、人と旅をする楽しさもあるかもしれません。
しかし、誰かとずっと会話をしていると、どうしても意識は日常でも接する相手に向かいます。
次はどこへ行くか、何を食べるか、などそうしたやり取りも旅の一部ですが、私の場合、それが続くと自分の内側へ向かう意識が少しずつ外へ漏れていく感覚があります。
本来なら自分の内面に向かうはずの情報量や考える意識の矢印が、自分の内面に向かってたまらず、外にばかり向かうイメージです。
反対に、一人で知らない町を歩いていると、入ってきた情報がそのまま自分の中へ沈んでいきます。
さっき見た寺院は何だったのか。
あの人はなぜあんな生活をしているのか。
自分はなぜあれを美しいと思ったのか。
なぜあの光景だけ妙に頭から離れないのか。
そうやって外側の世界と自分の内側を行き来する時間が生まれます。
私にとって一人旅とは、外の世界を見る旅であると同時に、自分自身と対話する時間でもあるのです。
他人に振り回されないということ
「自分軸」という言葉があります。
自分軸というと、自分の意見を曲げないことや、他人の意見を気にしないことだと思われるかもしれません。
しかし私は、それだけではないと思います。
他人を完全に遮断する必要もなく、環境から影響を受けない人間になる必要もないと思っています。
むしろ、色々な人から影響をうけ、旅先や本などから影響をされたり考えが変わってもいいと思います。
大切な点は、それらを受け取る場所が自分の中にあることです。
外側から何かが入ってくるたびに自分そのものが吹き飛ばされるのではなく、これは「自分にとって何なのだろう」や「自分ならどう思うだろう」と一度、自分の中へ持ち帰ることができる。
その場所が、自分の中の聖地です。
自分の中に帰る居場所があれば、外の世界のどこに身を置いても出ていくことができます。
逆説的ですが、内面にしっかりとした居場所を持っている人ほど、外の世界に対して開かれていられるのかもしれません。
自分を守るために世界を拒絶する必要がなくなるからです。
どこへ行っても、自分からは離れられない
どれだけ遠くへ旅をしても、自分自身だけは必ずついてきます。
世界の反対側まで行っても、自分の認識から完全に逃げることはできません。
だったら、自分自身を少しでも居心地のいい場所にしておいた方がいい。
外に完璧な場所を探すことをやめる必要はありません。
新しい世界を探し続けてもいい。
ただ、その旅と同時に、自分の中にも一つの場所を作っておく。
そして外の世界で拾ってきたものを、その土地の肥料にしていく。
そうやって長い時間をかけて、自分だけの聖地を育てていく。
私は今のところ、それが他人や環境に振り回されすぎずに生きるための、一つの方法なのではないかと思っています。
P.S
2026年10月1日~、約四か月間、東京銀座に個展を開催します。私の在廊可能日や不定休日などは以下の個展ページやSNSに随時更新予定です。



