何でも言語化する時代に、身体感覚を取り戻す【意味を求めすぎない生き方と芸術】

生き方

こんにちは。画家の宮島啓輔です。

本記事では、「何でも意味を求める時代に、言葉にならない感覚をどう受け止めるか」ということについて、少し書きたいと思います。

私たちは、何かに触れたとき、すぐに「これは何なのか」「どういう意味なのか」「何の役に立つのか」と考えます。

映画を見れば解釈を探し、旅に出れば学びを求め、作品を見れば背景や意図を知ろうとする。日常で何かを経験したあとにはそれを言葉にして整理する事が求められる場面や自発的に行う事も増えました。

もちろん、言語化することや知識を得る事には大きな価値があります。

言葉があるからこそ、人類は複雑な感情や思想を他者と共有できます。知識を繋いできたからこそ、技術が発展し、目の前のものをより深く理解し使う事もできます。

ただ、その一方で、あらゆるものを意味や理屈に回収しようとすることで、こぼれ落ちてしまうものもあるのではないでしょうか。

なぜかわからないけれど惹かれるもの。
説明できないけれど心に残るもの。
役に立つとは言えないのに、忘れられないもの。

そうした、まだ言葉になっていない感覚にも、確かな価値があるように思います。

今回の記事では、言語化や効率化の否定ではなく、それとはまた別の可能性として身体で感じる事や無駄や寄り道を含んだ経験の豊かさについて考えていきます。

なざ私たちは何でも意味づけしたくなるのか

人間にとって、意味がわからないものは不安です。

「これはこういうものだ」と理解できれば安心できますし、「こうすればこうなる」と整理できれば行動もしやすくなります。

私たちは、自分の理解が及ばないものに出会ったとき、何らかの名前や分類を与えることで安心しようとする傾向があります。

意味づけというのは、そうした人類の性質からも、世界を理解しやすくするための、とても優れた方法だと思います。

実際、私たちは言葉によって物事を分類し、知識として蓄積し、それを他者と共有することで社会を発展させてきました。

ただ、その一方で、意味づけというものには、世界を自分の理解できる範囲に収める働きもあります。

わからない何かに名前をつけると、それまで曖昧だったものに自分の縄張り内での輪郭が与えられます。

これは便利なことですが、その輪郭が必ずしも正しいとは限らず、そこからこぼれ落ちる部分もあります。

例えば、何か旅先で見た風景を「綺麗だった」と一言でまとめることはできます。

しかし、その時に感じた空気の湿度、光の強さ、温度、自分の体調や気分まで含めると、その経験は『綺麗だった』の一言だけで収めきることは、どう頑張ってもできません。

にもかかわらず、私たちはつい、複雑な経験やまだわかりきっていない事を、短い言葉へと整理したくなります。

それ自体は必ずしも悪い事ではありませんが、ただ、何でもすぐに理解し、分類し、意味づけしなければならないとなると、色々なものを取りこぼし、狭い世界観に入ってしまう事もあるのではないでしょうか。

理解できないものをわかりすぎようとせず、とりあえず全て受け止めるという余白も本来はもっとあって良いようにも思います。

言語化することで、見えなくなるものもある

言葉は世界を広げます。

同時に、世界に輪郭を与えます。

これは少し矛盾しているようですが、どちらも本当であると思います。

言葉があるからこそ、私たちは自分の感情を整理できますし、他人の考えを理解することもできます。

一方で、言葉にした瞬間に、その感覚が一つの方向へ固定されることもあります。

最近は「言語化する力」が重視される場面も多くなっています。

もちろんそれは大切な能力であり、この文章もまさに言語化をして書いているわけですが、すべてを言葉にできることがそのまま豊かさにつながるとは限りません。

考えることや言語化に長けている人ほど、本来は曖昧なまま受け止めてもよいものにまで輪郭を与えようとして、かえって思考の沼にはまり込むこともあります。

言葉にならない感覚を、言葉にならないまま抱えていること。

そこにもまた、別の豊かさがあるのではないでしょうか。

「無駄」や寄り道には意味があるのか

ここで少し、効率の話をしたいと思います。

今の社会では、できるだけ短い時間で、できるだけ多くの成果を得ることが求められます。

必要なものだけを選び、不必要と断定したものを省いて一見クリーンにみせるという事もあります。

仕事でも勉強でも、効率は非常に大切であり、私自身も元々は効率化を求める事こそが最も価値があると考えていた時もありました。

ただ、人生そのものや俯瞰してみた時の日常全てまでを効率で考えてしまうと、少し微妙な事になります。

人生には終わりがあります。

もし全てを最短距離で効率的に駆け抜けることだけが正しいとするなら、その途中にある寄り道や無駄は、できるだけ削るべきものとし、終わりに向かって突っ込んでいく事が正しい事になってしまいます。

しかし、本当にそうなのかと考えた時に、偶然回り道した経験や予定に無かった事、何の役にたつかわからなかったものの方が、後になって意外な形で自分の中に残っていることがあります。

効率という軸で見れば、無駄だったかもしれません。

しかし、その無駄によって、自分の中に新しい幅が生まれている側面は非常に大きいものです。

極端な喜びや失敗、予想外の出会いまで削ぎ落として、無難な「中間色」の中だけを生きるよりも、多少の無駄を含みながら大きな振れ幅を持っている方が、人間の経験としては豊かなのではないでしょうか。

理解する前に身体で感じるということ

私たちは、頭だけで世界に触れているわけではありません。

目の前に起こったことに、理由もなく圧倒されることは、説明を読まなくとも身体に届きます。

むしろ、実体を伴わず頭だけで考える事は机上の空論になり得ることすらあります。

そして、身体が体験したものをすべて言葉にする必要もありません。

言葉にする以前に、身体はすでに何かを受け取っています。

私は、この意味になる前の感覚はとても重要だと思っています。

何かを理解することはとても大切でありますが、理解というのは、ある意味で一度対象を整理し、自分の中に位置づけることでもあります。

その前段階には、もっと曖昧で、もっと直接的な接触があります。そのような感覚は、まだ言葉になっていないからこそ、広がりを持っているとも言えます。

情報が増え、AIによって文章や要約が簡単に得られる時代だからこそ、むしろこの「『身体を通した経験』やそれに限りなく近い一次情報」は、これまで以上に大切になってくるのではないでしょうか。

理屈を捨てるという意味ではなく、身体を持って無駄すぎるくらいに動いた経験に支えられた理屈を考えるということも大切にしたいと思っています。

現代アートは理解しなければならないのか

芸術の世界では、とくに現代アートやコンセプチュアルアートにおいて、作品の背景、歴史、社会的文脈、作家の思想などを知ることで、初めて見えてくるものがあります。

私はそれ自体には確立された大きな価値があるとおもっています。

知識を持って見ることで、ただの物質にしか見えなかったものが、まったく違う意味を持って立ち上がってきます。

ただ、その一方で、芸術全体が、「理解しなければならないもの」「正しく読み解かなければならないもの」「教養が必須なもの」になってしまうと、少し窮屈になるようにも感じます。

理由や説明を読まない、或いは読んでもわからなくとも、その作品に魅力があると感じる鑑賞方法も十分に成立していると思っています。

言葉や知識から作品へ近づく道もあれば、

同時に身体性や物質感など非言語的なところから作品へ近づく道もあります。

どちらか一方だけが正しいということではありません。

むしろ、作品によっては、最初に身体で受け取り、あとから知識や文脈を知ることで、見え方が変わることもあります。

反対に、先に背景を知っていたからこそ、実物の前で強く感じることもあります。

大切な事は、知識教養重視でコンセプチュアルアートを絶対視したり、或いはその逆でコンセプトなどは意味がわからないからと否定しないという事にあると思います。

複数の入り口や、現代アートとのさまざまな関わり方があってもいいのではないでしょうか

芸術は、必ずしも言葉を媒介にしたり言葉に落とし込みすぎなくても成立します。

そして、時には、よくわからない状態をそのまま放置する関わり方も、作品と長く関わる入り口になることもあります。

原画を実際にみる意味とは

私は画家として作品画像をインターネット上に公開しています。

これが、ミュージシャンであれば自作の楽曲をYouTubeに投稿したり、音楽配信サービスに公開したりとなるでしょう。

また、私の場合であればSNSで作品を見てもらったり、ブログで作品の背景や制作意図を書いたりすることもあります。

それでも、個展を開き、原画を直接見てもらうことには、やはり特別な意味があると感じています。

画面上の画像では、大きさや絵具の厚み、表面の質感、光の反射、細部の密度まで完全には伝わりません。

大きな作品の前に立ったとき、自分の身体との大きさの差によって感じ方が変わることもあります。

近づいて初めて見える線もあれば、少し離れて初めて見えてくる全体の構図もあります。

色も、画面上で見るのと実物で見るのとでは、印象が大きく違うことがあります。

こうしたことは、説明文だけでは伝えきれません。

だから私は、作品解説を書くことも大切にしていますが、それと同じくらい、何も知らない状態で作品の前に立ってもらうことにも価値があると思っています。

そして、わざわざ会場まで足を運び、原画をみてくださる方には、いつもありがたさを感じています。

言葉にならないものをそのまま残しておく

言葉も知識も、効率化によって助けられる場面も数多く、大切です。私はそれらを否定したいわけではありませんが、全てをそれだけで測らなくてもいいのではないかと私は思います。

言葉に落とし込んで意味を与える前にまず触れて感じてみることを実践する事の中にも人間の感受性や豊かさを広げる事もあるのではないかと考えています。

それでは、最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

プロフィール
この記事を書いた人

2006年3月生まれ幼少の頃より細密、極彩色な自分の脳内だけに存在する空想世界の絵をアクリル絵の具を主に様々な画材で1年に140点以上制作。作品サイズは数㎝のグッズから数ⅿの巨大アクリル画まで様々。高校1年生の時の個展開催以来二人展、グループ展等展示活動を続ける。ターナーアワード、Liquitex the challenge【小松美羽賞】等受賞多数。日々制作の幅は広がり続け、各地での展示、プロジェクトの実現を構想中

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